筆者の実用英語レベルへの飛躍は比較的遅めだ。生まれは島根県温泉津町、同県は港町・浜田に育ち、両親も義務教育で学んだ英語以上は何も持ちあわせていない。英語を始めたのは中学の時、以来文法偏重の受験英語の域は決して出ることはなかった。ただ全教科の中で英語にもっとも興味があり、確かにテストの成績もよく、文法などで疑問が浮かぶと英語教員を職員室まで追いかけることはよくしていた。大学受験でも英語で得点稼ぎをした類だ。ただ、ネイティブとも話したこともなければ、当時のカリキュラムや試験にリスニングはなかったため、実用レベルはかなりひどかった。特に発音は単語をはじめ、覚え、書けさえすればいい、という具合だったのでスペルをローマ字読みで暗記しようとしていたため、例えば、environment はもちろん “エンビロンメント” だ。お恥ずかしいが事実である。
そんな筆者が、仕事の都合で否が応でもネイティブとのコミュニケーションが必要になり、実用的な英語を学習せざるを得なくなった。それが25歳の春である。人並みに英会話学校へ通ったり、今一度受験生時代の文法を復習したりと思いつく学習法は何でも取り組んだ。
そんな筆者の実用英語修行駆け出しの時、その後の運命を大きく変える一冊の本に出会った。作者は國弘正雄 (くにひろまさお、1930年8月18日 – 2014年11月25日)。
國弘氏は、昭和日本における同時通訳の草分け的な存在とされ、アポロ11号月面着陸を報道するテレビ中継においての同時通訳(1969年)でも有名になり、以来「同時通訳の神様」とも呼ばれている人だ。実はこのような偉大な方であることは後で知った。偶々、友人宅の書棚にあった本を手にとったのがきっかけで、残念ながらその國弘氏による一冊のタイトルは失念してしまった。ただ内容は現在出版されている「國弘正雄の英語の学びかた – 2006 たちばな出版」と重なる部分は多いと思う。
國広氏は、生年月日からもうかがえるように戦前の生まれである。当然のことながら今のような英語教材やその類の情報源にあふれたデジタル全盛時代とは大きくかけ離れていた。生活必需品すらままならない時代である。そんな環境の中でも、国内の学習のみで「同時通訳の神様」となり得たのは、氏曰く、徹底に徹底を尽くした “音読” である。“只管朗読” と國広氏は呼ぶ。
“只管朗読” の只管とは、禅の只管打坐(しかんたざ)に由来しており、「ただひたすらに坐る」という意味であり、「それに成りきること」を本義とする。國弘氏は、この禅の精神と実践を自身の英語学習と重ね合わせたというわけだ。つまり、「ただひたすらに音読する」、「(音読する)その英文、英語になりきる」ということである。お肚からしっかり発声し、そこに書かれている英文を音読。その際、その英文の意味は自身の中に溶け込み、もちろん日本語で意味を訳す隙さえもない。英語と自分との間に一切の断絶は消滅し、英語が自分なのか、自分が英語なのか分からないくらいまさに英語と一つになる意識で音読する。これが “只管朗読” である。まさに禅の境地だ。
筆者は、当時このシンプルであるが、國弘氏の迫力ある実体験にも基づいた説得力ある英語学習法にたいへんな感銘を受けたことを記憶している。もちろん音読自体は知っていた。ただ、これほど徹底的に妥協なく追求する姿勢で説かれたのは初めてだったのだ。
國弘氏は、ある意味唯一の英語教材であった中学、高校の英語教科書を穴のあくほど繰り返し、繰り返し音読を繰り返したという。家の中で音読のその声が家族にとってうるさいと思われると感じた時は、外に出て外灯の下ででも音読を繰り返したという。
筆者がこの “國弘式只管朗読” をその瞬間から実践し始めたことは言うまでもない。以来、当時通っていた英会話学校でもその成果は明白だった。筆者のスピーキングが日に日に流暢になり、同じく通うクラスメートとも比較して、明らかに筆者の実用英語はダントツに速く成長していった。この時、本ブログ内の別カテゴリーで強く推奨しているシャドーイングはまだ知らなかったため、筆者はこの只管朗読を来る日も来る日も、何時間も何時間も繰り返し取り組み、その積み重ねの結果として、あの世界で最も難しい英語資格試験とされ、この資格をもっていれば世界のどこでも英語教師をすることが可能とされる英国ケンブリッジ英検 CPE (Certificate of Proficiency in English) のスピーキングセクションで合格したり、余裕をもっての実用英語検定1級合格はもちろん、31歳の時には英国バーミンガム大学から返還免除の給付型スカラーシップを得て大学院へも留学ができた。完全日本人ネイティブで、25歳から実用英語を始めた筆者がである。
以上、只管朗読を通じてのより具体的学習法はまた別の記事で投稿したい。
國弘正雄氏の御功績に深謝、、、。